
最終更新日:2018.11.26
第9代横綱 秀ノ山雷五郎のプロフィール
[しこ名] 秀ノ山 雷五郎
[ふりがな] ひでのやま らいごろう
[本名] 菊田辰五郎→橋本辰五郎
[所属部屋] 秀ノ山部屋
[生年月日] 1808年(文化5年)生まれ
[出身地] 宮城県気仙沼市
[身長] 164㎝
[体重] 135㎏
[幕内通算成績] 112勝21敗33分2預
[優勝相当の成績] 7回
分…引分
預…預かり(物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めないこと)
無…無勝負(勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司は勝敗の裁定をなしにすることができた)
秀ノ山雷五郎が横綱になるまでの道のり
1828年(文政11年)10月 序ノ口で初めて番付に載る
1837年(天保8年)1月 新入幕
1845年(弘化2年)11月 新横綱
小さくても横綱になれる!入門から19年かかって横綱になった秀ノ山雷五郎
第9代横綱秀ノ山雷五郎は入門からおよそ19年かかって横綱へと昇進しました。
少年時代より怪力豪腕で相撲が大好きだった秀ノ山雷五郎は、力士になる夢を捨てきれず一人江戸に向かいますが、体が小さかったためどこの相撲部屋でも門前払いだったといいます。
入門がままならない秀ノ山雷五郎は一度仙台に戻りますが、あきらめきれずまた江戸へ行き、やっとのことで秀ノ山伝治郎のもとに入門することができました。
しかし入門後も雑用ばかりで稽古どころか土俵にも上がらせてくれないという不遇の期間が続きます。
歴代横綱の中でも小兵の秀ノ山雷五郎でしたが、稽古に次ぐ稽古を重ね、激しい闘志で相手にぶつかり、念願の横綱免許を授与された時には38歳という年齢を重ねていました。
秀ノ山雷五郎は1850年(嘉永3年)3月に引退し、引退後は年寄「秀ノ山」を襲名しました。
そして1862年(文久2年)5月19日、55歳で亡くなりました。
大相撲史初のストライキ「嘉永事件」は秀ノ山雷五郎の贔屓が原因だった
大相撲の歴史上初めてのストライキ事件を通称「嘉永事件(かえいじけん)」といいます。
嘉永事件とは、1851年(嘉永4年)2月の春場所中に起きた本中(ほんちゅう)力士のストライキ事件のことです。
本中とは、前相撲と序ノ口の間にあった番付外の力士の地位のことです。江戸時代は、前相撲→相中(あいちゅう)→本中と進んでやっと番付の序ノ口に載るという、番付に載るまでに長い道のりがありました。
この嘉永事件は、引退後、年寄として中改(なかあらため:現在の審判員委員)をつとめていた秀ノ山雷五郎が、本中にいた自分の弟子を優遇したことが発端です。
ちょうどその当時、相撲の盛り上がりによって力士を志す人が多くなり、番付外の力士が数多く在籍していました。
本中力士はこれまで1日おきに相撲を取ることができましたが、本中力士の数が多くなったことで3日に1度しか相撲を取ることができなくなりました。
土俵に上がる機会が少なければ、それだけ出世が遅くなってしまいます。
そんななか、秀ノ山雷五郎は自分の弟子たちだけは以前と変わりなく1日おきに土俵に上がらせました。
この不公平なやり方が前場所から続いていたため、出場機会の少ない本中力士たちが反発し抗議しましたが聞き入れられることはなく、その結果100人あまりの本中力士が回向院の念仏堂に立てこもってしまいました。
しかし、相撲会所と秀ノ山雷五郎はこのストライキを無視し、本中の取組をせず、本中の取組を抜かして本場所開催を続けようとしました。
これを聞いた本中力士たちは殺気だち、慌てた相撲会所は秀ノ山雷五郎を説得します。最終的に秀ノ山雷五郎自ら回向院に出向いて謝罪し、本中力士の要求を受け入れて取組を編成し直すことで無事解決しました。
しかしこの春場所は雨天のため結局5日目までで打ち切られることになったのでした。
東日本大震災の大津波を乗り越えた秀ノ山雷五郎の銅像
秀ノ山雷五郎の故郷である宮城県気仙沼市には、秀ノ山雷五郎の銅像があります。
2011年3月11日に発生した東日本大震災によって秀ノ山雷五郎の銅像は大津波に飲み込まれましたが、奇跡的に流出せず存在しています。
東日本大震災直後の新聞では「津波にも“残った”“残った”!」という見出しでこの情報は報道されました。
交通アクセス
JR気仙沼駅より車で25分
三陸縦貫道登米東和ICより車で60分
駐車場
普通車 20台
気仙沼市波路上岩井崎1-1
参考URL「気仙沼市役所」様より「被災地に勇気と希望を与える「秀ノ山雷五郎像」と「龍の形の被災松」」
※敬称略