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【第29代横綱】宮城山福松(みやぎやまふくまつ)

最終更新日:2018.12.30

第29代横綱宮城山福松は、大阪相撲4人目の横綱であり、最後の大阪横綱でもあります。

東京相撲から脱走して大阪相撲に移った宮城山は、東西合併後初めて迎えた本場所で見事優勝し、大阪相撲の面目を保ちました。

宮城山福松が相撲界へ入門したきっかけ

宮城山の父親は農業のかたわら乗合馬車の御者をしていました。小さいころから父親の仕事を手伝っていた宮城山の怪力ぶりは馬力にも勝るといわれたことからそのまま「馬力」と呼ばれ、空いた時間には村相撲、近隣の青年相撲、草相撲に参加して活躍していました。

1909年(明治42年)秋、宮城山が14歳のとき、第19代横綱常陸山谷右衛門一行が一関に巡業にきました。そのときの関取衆の晴れ姿を仰ぎ見てすっかり力士に憧れた宮城山は、親方から声をかけられた縁もあり翌1910年(明治43年)に上京し、出羽ノ海部屋に入門しました。

【第19代横綱】常陸山谷右衛門(ひたちやまたにえもん)

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歴代の横綱

そして1910年(明治43年)6月、故郷にちなんだ「岩手川福松」のしこ名で初土俵を踏みました。

宮城山福助の東京相撲時代

宮城山は1911年(明治44年)2月に序ノ口に出世し、同年6月に序二段、翌1912年(明治45年)5月には三段目となり順調に昇進していきます。

しかし宮城山が三段目に上がったときにトラブルが発生しました。

当時、三段目に上がると羽織と足袋を身に着けることを許され、雑用などからも解放、そして現在は関取にならなければ結うことはできない、大銀杏も結うことが許されていました。

しかし実際に大銀杏を結うのは古参力士ぐらいで、普通は遠慮して全体を小ぶりにした栗髷を結うのが慣習でした。

そんななか、三段目となった宮城山は嬉しさのあまり大銀杏を結ってもらって喜んでいたら、それを見た幕下時代の九州山十郎(のち大関)が「この野郎!生意気なやつだ!」と宮城山を殴りつけたのです。

この一件が原因だったのかはわかりませんが、宮城山は三段目になった場所を取り終わると、病気のため故郷に帰ると見せかけ、その実東京相撲から脱走してしまいました。

宮城山福助の大阪相撲時代

東京相撲を脱走した宮城山は大阪相撲頭取の高田川政吉(侠客・橋本政吉)のもとに入門します。高田川部屋には東京相撲経験者の力士もおり、宮城山もその一員となりました。

そして1913年(大正2年)5月「宮木山(のちに宮城山)」としこ名を改め、幕下附出しから再出発します。

当時、東京相撲、大阪相撲とそれぞれありましたが、東京に比べて大阪はレベルが低かったため、東京では三段目の地位だった宮城山は、大阪では三段目より上の、幕下附出しから取り始めることになったのです。

さすがに東京で鍛えられた宮城山の地力は群を抜き、1915年(大正4年)1月に新十両、翌1916年(大正5年)6月に新入幕を遂げ8勝1敗1預、そして1917年(大正6年)1月に新関脇となり8勝1敗1預、さらには幕内3場所目となる同年6月には早くも大関に昇進しました。

新入幕から3場所目で大関昇進となったのは宮城山と、東京相撲の第26代横綱大錦卯一郎だけになります。

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歴代の横綱

大関昇進後、新大関の場所では星を残しましたが、1918年(大正7年)1月は病気のために全休、その後は病気のため1921年(大正10年)1月に1度だけ負け越しましたが全体的に安定した実力を見せ、第28代横綱大錦大五郎に対抗し、全盛期を過ぎていた横綱大錦に代わってしだいに土俵の主役となりました。

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歴代の横綱

そして東京相撲から脱走して9年が経った、1921年(大正10年)3月の東西合併興行の初日、宮城山が東京相撲脱走の一因を作った九州山と顔が合うことになったのです。

宮城山は大阪相撲で大関として活躍しているいっぽう、九州山は深酒がたたって大関から陥落し平幕に甘んじていましたが、もちろん油断できない相手には違いありません。

因縁の一戦はがっぷり四つになり、宮城山の鋭い寄り身の前に九州山が力尽き、宮城山に軍配が上がりました。

しかしこの話は宮城山が勝って終わりではなく、さらに続きがあります。

その後、支度部屋に帰る直前、宮城山の前に羽織袴姿に正した九州山が現れ、当時の鉄拳制裁は宮城山が慣習を破ったことを戒め、そしてさらに彼を発奮させるためのものだったとし、若き日の無礼を真摯に謝罪したのです。

宮城山は九州山の真意を理解すると長年の恨みを捨て、互いに和解の握手をしたといいます。

因縁の対戦から始まったこの東西合併興行で、宮城山は横綱大錦卯一郎、大関常ノ花らを倒して7勝3敗の成績を残し、浪速のファンを喜ばせ、さらに宮城山の人気が上昇し、注目されるようになりました。

そしてこの活躍を見た旧師である元横綱常陸山の出羽ノ海親方は宮城山を激励して教訓を与え、のちのちその言葉は宮城山の出世の励みとなったといいます。

大阪相撲4人目の横綱へ

1921年(大正10年)6月、8勝2敗ながら2度目の優勝あげた宮城山は、翌1922年(大正11年)1月に10勝全勝で連覇を遂げ、場所後に横綱推挙の声があがりました。

協会は東京方の可判の上に吉田司家に申請書を提出し、司家も宮城山の実力を認めたので、1922年(大正11年)2月、宮城山は大阪相撲で4人目の横綱免許を授与されたのです。

宮城山は大阪相撲のなかでも特に大きい体格ではありませんでしたが、全盛期には柔らか味のある技巧派で玄人受けする取り口を見せました。

特に前裁きのうまさには定評があり、得意の右四つになると出足早の鋭い寄り身、相手が残すと下手投げ、鮮やかで足腰の柔らかさでは無類で、その二枚腰から土俵際の打っちゃりも巧みだったそうです。

宮城山は1922年(大正11年)5月場所に新横綱として登場し、初日に不覚を取ったものの7勝1敗2分けの成績を収め、さらに宮城山の土俵入りが人気をよんで連日の大入りの盛況だったといいます。

しかし1923年(大正12年)1月、場所前の稽古中の怪我が元で全休します。そして右手指の怪我からばい菌が入り、腕がしびれるなどの症状を起こして満足に相撲が取れない状況が続き、しだいに休場も増え苦戦が続きました。

怪我の後遺症から1924年(大正13年)、1925年(大正14年)とも満足に出場できず、1926年(大正15年)1月に台湾で開催された大阪相撲最後の本場所で優勝を飾りなんとか面目を保ちます。

宮城山が怪我に苦しむなか、協会では不況を乗り切るため、東京協会と大阪協会との合併の話がまとまりました。

そして1925年(大正14年)から1926年(大正15年)にかけて合同番付作成のため連盟大相撲が開催されましたが、ここで大阪方は面目を失います。

かねてから指摘されていた東京相撲と大阪相撲の実力差が明らかになり、多くの大阪方の力士が現在の番付から格下げとなったのです。

そんななか、大阪相撲の第一人者である宮城山も怪我が響いて満足した成績を残せず、東京でいえば関脇、小結相当の成績しか残しませんでした。

しかし横綱の地位を尊重し土俵態度も優れていたので、大阪相撲の力士の中で唯一宮城山だけが格下げされず、横綱の待遇で1927年(昭和2年)1月、東西合併後初めての本場所を迎えます。

宮城山を除いて大阪相撲の力士全員が格下げとなった経緯を考えると、当然東京相撲出身の力士が優勝すると思われ、大阪方は意気消沈していたといいます。

しかし、東西合併後の初めての本場所を迎えてみると、横綱常ノ花が不調で、さらには横綱西ノ海も途中休場するなど、東京片の横綱大関陣が総崩れのなか、宮城山は横綱としての面目をかけ初日から健闘して白星を重ね、千秋楽に横綱常ノ花に敗れたものの10勝1敗で優勝を飾ったのです。

宮城山は東西合併後、大阪相撲の面目を保ち、その優勝を大阪方の人々と喜びあったといいます。

その後は1928年(昭和3年)10月に2度目の優勝、1929年(昭和4年)9月に同点優勝の成績を残しますが、1931年(昭和6年)1月限りで引退しました。

負け越した場所もあり、弱い横綱の代名詞のように言われることもありますが、合併時にはすでに全盛期を過ぎており、横綱常ノ花の引退で一人横綱となってやめるにやめられなかったなどの事情もあったようです。

引退後は弟子を育成しながら趣味を楽しむ

引退後は年寄白玉から芝田山を襲名します。

部屋を興して弟子を育成し、勝負検査役を長年務める一方で、多趣味だった宮城山は野球観戦を楽しみ、相撲甚句や安来節をレコードに吹き込むなどもしました。

そして1943年(昭和18年)11月19日に48歳で亡くなりました。

宮城山が亡くなったこの年は、5月に元横綱大錦大五郎、10月に元横綱若島権四朗が亡くなるなど、大阪相撲の横綱が姿を消した年になりました。

第29代横綱宮城山福松のプロフィール情報

しこ名宮城山 福松(みやぎやま ふくまつ)
しこ名履歴岩手川→宮木山→宮城山
所属部屋東京の出羽ノ海部屋→大阪の高田川部屋
本名佐藤福松
生年月日1895年(明治28年)2月27日
出身地岩手県一関市五代町
身長173㎝
体重113㎏
幕内通算成績大阪 102勝24敗6分5預63休
東京 90勝70敗1痛分26休
優勝2回
勝率0.566
得意手右四つ、寄り、吊り
年寄名白玉→芝田山

分…引分
預…預かり(物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めないこと)
無…無勝負(勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司は勝敗の裁定をなしにすることができた)

第29代横綱宮城山福松の略歴

1895年(明治28年)2月27日 誕生
1909年(明治42年)秋 巡業をみて力士に憧れる
1910年(明治43年) 東京の出羽ノ海部屋に入門
1910年(明治43年)6月 東京で初土俵
1911年(明治44年)2月 序ノ口
1911年(明治44年)6月 序二段
1912年(明治45年)5月 三段目→脱走
1913年(大正2年)5月 大阪で幕下附出し
1915年(大正4年)1月 新十両
1916年(大正5年)6月 新入幕
1917年(大正6年)1月 新関脇
1917年(大正6年)6月 新大関
1921年(大正10年)3月 九州山と因縁の対決→和解
1922年(大正11年)2月 横綱免許授与
1922年(大正11年)5月 新横綱
1927年(昭和2年)1月 東西合併により東京で横綱
1931年(昭和6年)1月 引退
1943年(昭和18年)11月19日 48歳で没

※敬称略

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