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【第30代横綱】三代目西ノ海嘉治郎(にしのうみかじろう)

最終更新日:2019.02.09

第30代横綱三代目西ノ海嘉治郎は「源氏山」のしこ名で横綱昇進後、井筒部屋の伝統のしこ名「西ノ海」を受け継ぎ、同名3人目の横綱になります。

筋肉質の均整のとれた体でもろ差しからの寄りを武器に、栃木山、常ノ花ら出羽ノ海一門に健闘しますが、怪我や病気で実力を発揮できず悲運の横綱として終わりました。

三代目西ノ海嘉治郎が相撲界へ入門したきっかけ

鹿児島県の農家に生まれた西ノ海は、生まれつき恵まれた体格と怪力を持ち、小さい頃から評判の働きものでした。

農作業をしながらも相撲を好み、村の祭礼相撲が近づくと朝から一人で稽古に励んで、村のなかで西ノ海に勝つ人はいなかったといいます。

そして西ノ海が17歳の秋、近くの町に同じく鹿児島県出身の錦洋与三郎(のち第25代横綱二代目西ノ海嘉治郎)一行が巡業に訪れたことが相撲界入門へのきっかけとなります。

西ノ海は角界入りを希望し錦洋(二代目西ノ海)と入門の約束を交わしますが、父親は働き手を手放すことに反対し、最終的に力士になる決心が変わらなかった西ノ海は家出同然に翌1909年(明治42年)5月に上京して井筒部屋に入門しました。

「源氏山」のしこ名で活躍しトントン拍子に出世

1910年(明治43年)1月、源氏山源二(伊勢助、大五郎)のしこ名で初土俵を踏んだ西ノ海ですが、この場所の同期生にはのちの第26代横綱大錦卯一郎、同じくのちの第31代横綱常ノ花寛一がいるという「当たり場所」になりました。

1910年(明治43年)6月に序ノ口、翌1911年(明治44年)2月に序二段になり、1912年(明治45年)1月の序二段から全勝で土つかずと順調に進み、さらに同年5月に三段目、翌1913年(大正2年)1月に幕下へと番付を上げ、1914年(大正3年)6月まで20連勝を記録しました。

まさにトントン拍子の快進撃に、早くも有望力士の一人として将来を期待されます。

同期の大錦と常ノ花、1場所遅れて初土俵を踏んだのちの第27代横綱栃木山守也らと出世を競い合い、1915年(大正4年)1月新十両になり、十両も2場所で突破して、翌1916年(大正5年)1月には同じ井筒部屋の宮城山正見、逆鉾盛吉とともに新入幕を果たしました。

新入幕の場所は初日に負けたものの、その後連勝を続け9勝1敗の優勝同点の好成績を挙げました。この場所の優勝は師匠の二代目西ノ海で(当時二代目西ノ海は年寄井筒を兼務)場所後に横綱昇進を決めるなど、西ノ海の活躍は師匠の昇進に花を添える形となりました。

若いころの西ノ海は183㎝と当時としては大柄で、地方巡業では「宿屋泣かせ」の異名を取ったほどの大食漢でしたが、均整の取れた筋肉質のソップ型でした。

足腰は強く腕力もあり、突っ張ってからの叩き込み、もろ差しになってからの寄り身、残れば左からのすくい投げが得意で、強烈な突っ張りやのど輪は相手に恐れられていました。

しかし、やや慎重すぎる性格が災いし、立ち合いがあまりうまくなかったり、格下の力士から思わぬ機先を制せられて不覚を取るなどしていました。

新入幕での劇的な活躍後、1918年(大正7年)5月に関脇まで番付を上げますが、2勝8敗と大負けするなど、この頃はやや低迷したような感じをみせます。

1919年(大正8年)5月に平幕(前頭6枚目)で初日から勝ち進み10日目の千秋楽に負けてしまいますが9勝1敗の好成績を残し、翌1920年(大正9年)1月に小結、続いて1921年(大正10年)1月に復帰した関脇で7勝2敗1預、5月には8勝2敗と三役に定着し、場所後に大関へと昇進します。

この頃になると、もろ差しの強襲にも磨きがかかり、また長身から繰り出すのど輪攻めは破壊力があり、相手の脅威となっていたといいます。

そして1921年(大正10年)5月に8勝2敗で優勝旗手となり、場所後に大関昇進を果たします。

当時は個人優勝よりも、東方、西方の幕内対抗戦ほうが重視されていました。総勝ち星の多い陣営が優勝となり、勝った陣営の関脇以下の最高成績者が優勝旗手に選ばれるという仕組みです。その優勝旗手に選ばれるという栄誉を西ノ海は4回も受けていました。

大関昇進を機に、東西制でそれまで出羽ノ海一門の陣営にあった西ノ海は、東西のバランスを取るため反対の陣営に回り、これまでの仲間たちと対戦することになりました。

当時の出羽ノ海一門というと、角聖とよばれた元第19代横綱常陸山谷右衛門の出羽ノ海親方が率いる出羽ノ海部屋の全盛期のころでした。横綱大錦、横綱栃木山、大関常ノ花(のち横綱)ら出羽ノ海一門が優勝争いをしていた時代です。

西ノ海はこれら強豪の出羽ノ海一門と対戦することになりますが、対横綱栃木山、大関常ノ花、大ノ里戦などの好取組が生まれると当時の好角家は大変喜んだといいます。

西ノ海にとって、常ノ花は同期生、栃木山は1年後輩にあたります。(同じく横綱大錦も同期生でしたが、1年後に三河島事件の責任を取って髷を切ったため対戦は実現しませんでした)

新大関の場所は大ノ里には勝ちましたが横綱栃木山、大関常ノ花らに負け7勝3敗。5月は腰骨挫傷のため全休し、1923年(大正12年)1月は大ノ里、大関常ノ花に勝って、横綱栃木山とは引き分け8勝1敗1分け、栃木山と同星になりましたが、当時は優勝決定戦がなく、番付上位の栃木山が優勝となってしまいました。

しかし、協会では西ノ海を横綱に推薦し、吉田司家に認可を申請しましたが、大関在位3場所、このうち1場所は全休で、優勝なしとは成績的に物足りず、実績不足を理由に難色を示されます。加えて、この場所前に待遇改善を求めて関脇以下の力士会がボイコットを起こした「三河島事件」が勃発したあとだっただけになかなか承諾を受けられませんでした。

しかし、横綱栃木山、大関常ノ花らの出羽ノ海一門に対抗できる一番手として、また出羽ノ海勢と反対の方屋は横綱不在のうえ、番付の東西のバランスを考えるとどうしても横綱が必要だったという興行的な事情があって、協会もあきらめずに吉田司家と交渉し、最終的には司家側が折れて横綱昇進が実現しました。

それから1923年(大正12年)2月に横綱を免許され、4月に熊本の吉田司家にて授与式が行われました。

横綱「三代目」西ノ海嘉治郎へ

1923年(大正12年)5月、新横綱の場所は腰部挫傷で途中休場し、場所の後半2日のみ再出場しますが、晴れ舞台を飾れず、横綱としての期待には応えられませんでした。

翌1924年(大正13年)1月、「源氏山」から井筒部屋伝統の「西ノ海嘉治郎」としこ名を改め、3代目の「西ノ海」となりました。

同じ鹿児島県出身で、同じ名前の横綱が3人誕生したのは最近まで例がなく、横綱へ昇進後、1場所を務めての改名も珍しいものでした。(最近では若花田が若ノ花から若乃花を継いで、三代目の「横綱若乃花」となりました)

しかし、改名しても好転のきっかけにはならず、改名直後の1924年(大正13年)1月は怪我が完治せず全休し、その後も途中休場や全休が多く、横綱在位15場所中、全休が6場所、途中休場が6場所、満足に相撲が取れたのは3場所だけでした。

それから1925年(大正14年)5月に9勝2敗で念願の優勝を飾りますが、これは横綱栃木山が引退後、さらに横綱常ノ花も途中休場したときのものでした。

しかし東西合併の審査となった連盟大相撲の1926年(大正15年)3月にも優勝し、その実力を見せつけます。

しかしながら、相手陣営の出羽ノ海一門の横綱栃木山があまりにも強く、また常ノ花のような華やかさもなかったので、西ノ花はどうしても脇役のイメージが強くなってしまいました。

さらに追い打ちをかけるように、心臓の病も抱えてしまい、高齢も加わって西ノ海は衰えたといいます。

立ち合いでなかなか立たずに仕切りを繰り返し、観客がトイレに行って戻ってきてもまだ仕切っているほどだったこともさらに印象を悪し、残念ながら弱い横綱の印象だけが残ってしまったようです。

稽古場では無類の強さを誇ったという実力を存分に発揮できないまま、1928年(昭和3年)10月限りで引退しました。

横綱在位15場所、皆勤わずか3場所でした。

引退後は厳しくも愛情深い弟子の指導で知られる

西ノ海は引退後、年寄り浅香山を襲名し、弟子の育成に力を注ぎました。

親方となってからは弟子思いで愛情深い指導で知られましたが、弟子のしつけは厳しく「自分のことは自分でやれ」という主義で、なんでも付け人まかせの力士稼業のなかでは特異な教育といわれました。

無口で交際嫌いの性格のためか横綱の栄位につきながら役職に就くことなく、平年寄のまま引退から5年後の1933年(昭和8年)7月28日、心臓病の影響から42歳の若さで亡くなりました。

第30代横綱三代目西ノ海嘉治郎のプロフィール情報

しこ名西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう)
しこ名履歴源氏山→西ノ海
所属部屋井筒部屋
本名松山伊勢助
生年月日1890(明治23年)11月2日
出身地鹿児島県霧島市隼人町真孝
身長183㎝
体重116㎏
幕内通算成績134勝60敗2分2預116休
優勝1回
勝率0.691
得意手左四つ、もろ差し、寄り
年寄名浅香山

分…引分
預…預かり(物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めないこと)
無…無勝負(勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司は勝敗の裁定をなしにすることができた)

第30代横綱三代目西ノ海嘉治郎

1890(明治23年)11月2日 誕生
1909年(明治42年)5月 井筒部屋に入門
1910年(明治43年)1月 初土俵
1910年(明治43年)6月 序ノ口
1911年(明治44年)2月 序二段
1912年(明治45年)5月 三段目
1913年(大正2年)1月 幕下
1915年(大正4年)1月 新十両
1916年(大正5年)1月 新入幕
1923年(大正12年)5月 新横綱
1928年(昭和3年)10月 引退
1933年(昭和8年)7月28日 42歳で没

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