Home Twitter Facebook Instagram Contact

【第28代横綱】大錦大五郎(おおにしきだいごろう)

最終更新日:2018.12.30

第28代横綱大錦大五郎は、品格に優れた大阪相撲3人目の横綱です。

衰退期の大阪相撲を支え続けた功績は大きく、誠実な人柄や優れた品格は高く評価され、第21代横綱若島権四郎、第23代横綱大木戸森右衛門に続く3人目の大阪相撲の横綱として28代目の横綱に数えられています。

【第21代横綱】若島権四朗(わかしまごんしろう)

【第21代横綱】若島権四朗(わかしまごんしろう)

歴代の横綱

【第23代横綱】大木戸森右衛門(おおきどもりえもん)

【第23代横綱】大木戸森右衛門(おおきどもりえもん)

歴代の横綱

大錦大五郎が相撲界へ入門したきっかけ

大錦は子供のころから体が大きく、数え年の6歳のときに地元の子供相撲大会で17人に勝ち「稲元の金太郎」と呼ばれ、その怪童ぶりは近所でも有名だったそうです。

大錦の父、松次郎は大工職で2番目の兄と大錦は父親の元で大工の修業をしていました。その兄が京都の伯父のところに身を寄せたことがきっかけで大錦も京都に出ます。

そのとき、土建業方面に顔が広かった京都相撲の取締、いろは幸太郎に体格を見込まれ弟子入りし、1900年(明治33年)11月に「大錦」のしこ名で初土俵を踏みました。

大錦大五郎の京都相撲時代

京都相撲は東京相撲や大阪相撲と比較すると力士の数が非常に少なく、初土俵を踏んだらすぐ番付にしこ名が載るというのが当たり前でした。さらに当時の京都相撲は、幕下は1日2番勝負、三段目以下は3番勝負の制度で、不定期ながら本場所も開催されるという状況でした。

そんななか、初土俵を踏んでからわずか2年半ほどの間に大錦は徐々に頭角を現し、将来を有望されます。

しかし土建業のほうが忙しくなり、相撲部屋の親方として満足に務めを果たせないでいた師匠のいろは幸太郎は、大錦が三段目だった1902年(明治35年)3月ごろ「お前は将来見込みがあるから、東京なり大阪なり好きなほうへ行って、本当に修業をして一人前の相撲取りになったらどうか」とすすめ、その後大錦は縁あって大阪相撲の元幕内懸車の陣幕久右衛門(北陣)の門下へ移籍し、1903年(明治36年)1月に三段目附出しで相撲人生を再スタートさせました。

大錦大五郎の大阪相撲時代

大錦が大阪で三段目附出しから相撲人生を再スタートしますが、頼みの陣幕(北陣)が場所後に急死し、遺された弟子たちは元幕内岩ケ谷の朝日山部屋に移籍することになりました。

一時期京都相撲へ戻ったときもありましたが、すぐに大阪相撲へ復帰し番付を上げ、下のしこ名を「大五郎」としました。

1905年(明治38年)6月には、十両10枚目で8勝8分1預かりで土つかずの好成績を挙げ、翌1906年(明治39年)2月に新入幕…となるはずの場所で事件が起きました。

新入幕の番付発表直後、他の力士から大錦の昇進に対して苦情が出たのです。

「いくら土つかずにせよ、十両の10枚目から入幕させるのは公平を欠いた上げ方だから、貧乏神(十両筆頭)の位置で取らせろ」と主張され、その強硬なクレームの結果、結局大錦は十両筆頭格で相撲を取ることになり、もちろん十両として土俵入りも行いました。

新入幕のはずが一転して十両となり、貧乏神の地位らしく、初日に格上の小結雷山との対戦が組まれました。

普段は温厚な大錦もこの仕打ちに対してはさすがに発奮したのか、雷山との対戦は両者相四つの左四つとなり、右上手を引いた雷山は投げを打って土俵際まで寄りますが、かろうじて残った大錦は回り込みながら吊り気味に下手投げで小結雷山を破ったのです。

この1勝から始まり、最終的には5勝2敗1分1預の好成績を収めた大錦は、翌5月に正式に入幕を果たしました。

この頃の大阪相撲は第21代横綱若島権四郎が引退し、代わって第23代横綱大木戸森右衛門時代を迎えた頃でした。

そのなかで1907年(明治40年)6月に小結、翌1908年(明治41年)1月に関脇となった大錦は朝日山部屋の兄弟子である大関放駒とともに大木戸に対抗し、その一方で強豪力士として人気、人望を集めていました。

また、大錦が大関へ昇進する前後、元第19代横綱常陸山谷右衛門から放駒と大錦に東京相撲移籍の話がありましたが、大錦は師匠の朝日山親方への恩義から移籍を断わり、大阪相撲へ残ります。

【第19代横綱】常陸山谷右衛門(ひたちやまたにえもん)

【第19代横綱】常陸山谷右衛門(ひたちやまたにえもん)

歴代の横綱

そして1910年(明治43年)6月場所後、放駒の東京相撲への移籍に伴って大錦は大関に昇進しました。

大関昇進後、これまで対戦成績では大きくリードされ、力量に差があった横綱大木戸としだいに互角に渡り合えるようになります。やがて大木戸が脳溢血に倒れて1914年(大正3年)1月限りで引退すると、大錦は大阪相撲を引っ張る存在になりました。

そんななか、1916年(大正5年)7月に師匠の朝日山親方が急逝し、その遺言によって部屋頭であった大錦が後継者に指名されますが、社交下手を理由に辞退します。代わりに弟弟子の二タ瀬川(のち大関)を推薦し、相談の結果、1年だけ大錦が襲名し、その後は二タ瀬川に任せることが決定しました。

1917年(大正6年)1月と5月両場所、大錦は朝日山大五郎を襲名し頭取二枚鑑札となります。そして先代の一周忌過ぎた1918年(大正7年)1月にまたもとの大錦に戻り、朝日山の跡目は約束通り二タ瀬川に譲り、その後自ら大錦部屋を現役で興しました。

大錦は大関を7年半14場所務め、6度目の優勝相当の成績を挙げたあと、4月に吉田司家から横綱免許を授与され、若島権四郎、大木戸森右衛門に続く3人目の大阪相撲の横綱となったのです。

34歳、品格を評価され遅咲きの横綱へ

大錦はがっしりした筋骨たくましい体格を生かした正統派の四つ相撲で、取り口が慎重すぎて勝ち味の遅い相撲ではありましたが、左右差しどちらでもよく、特に左四つから右上手を引くと強さを発揮し、はず押し、寄り、投げを得意としました。

すでに全盛期を過ぎた34歳で遅咲きの横綱となったものの、大阪相撲の横綱の先輩である若島権四郎や大木戸森右衛門に比べると実力的には劣っていたといわれ、一代戦歴をみても東京との合併相撲では大敵には歯が立たず、横綱としては低い評価となっています。

たとえば大錦と同時期に横綱を張っていた東京相撲の第26代横綱大錦卯一郎とは合併相撲で対戦してますが、対戦成績で圧倒されています。(余談ですが、珍しい同名対戦となった大阪の大錦大五郎と東京の大錦卯一郎の二人ですが、大阪の大錦の父親は「山田松次郎」で大工職、そして東京の大錦の父親も「細川松次郎」で宮師(宮大工職)をしていたという不思議な縁がありました)

【第26代横綱】大錦卯一郎(おおにしきういちろう)

【第26代横綱】大錦卯一郎(おおにしきういちろう)

歴代の横綱

ほかにも栃木山など東京相撲の強豪にも分が悪かったとされます。

そうした実力でも横綱に昇進できたのは、乱れた大阪相撲にあって大阪相撲を支え、長年にわたり真面目に土俵を務めた誠実で優れた人格を高く評価されてのものだとみられています。

明治30年代後半、若島権四郎の台頭で訪れた大阪相撲の興隆は大木戸森右衛門の時代も引き継がれましたが、その大木戸の横綱昇進を巡る大阪協会と東京協会の絶交などがあって次第に人気を失い、閑古鳥が鳴く状況でした。

協会内部の組織も乱れ、でたらめな部分が多かったなか、長年大関の地位を辱めず、品行方正、温厚で誠実な人柄、腐らず真面目に土俵に打ち込んだことなどが、横綱になり得たる十分な品格があると評価されました。

その品格の高さは大錦が横綱に昇進したとき、吉田司家から「方屋(かたや)に登って立った瞬間の品位満点」と賞賛されたことからもうかがえます。

横綱となったあとの皆勤はわずか2場所と満足な成績を残せませんでしたが、大阪相撲の第一人者として土俵を盛り上げました。

そして1922年(大正11年)1月場所限りで引退しました。

引退後、一代頭取大錦となるも廃業して茶屋の主人へ

大錦は横綱昇進から4年後、38歳のときに引退します。

この場所全勝した宮城山が場所後に第29代目の横綱昇進をきめ、大阪相撲が久々の活況を呈するなか、自らの役割の終わりを心得たかのような引き際だったといいます。

引退後は一代頭取大錦として弟子を育成し、勝負検査役にも選任されますが、協会内部の紛争「龍神事件」のため役員が総辞職する事態になりました。その後大錦は再任されますが、1923年(大正12年)11月限りで角界に見切りをつけ市井の人となりました。

廃業後は、現役中に入婿となっていた妻の実家である大阪曾根崎新地の茶屋「京いと」の主人として曾根崎新地の取締役的存在となり、悠々自適の生活を送り、恵まれた後半生を過ごしたといいます。

そして1943年(昭和18年)5月16日、59歳で亡くなりました。

第28代横綱大錦大五郎のプロフィール情報

しこ名大錦 大五郎(おおにしき だいごろう)
所属部屋京都の伊呂波部屋→大阪の北陣部屋→大阪の朝日山部屋→大錦部屋
本名渡辺吉三郎→山田吉三郎→鳥井吉三郎
生年月日1883年(明治16年)7月22日
出身地愛知県弥富市稲元彦九
身長176㎝
体重113㎏
幕内通算成績161勝50敗13分2痛分11預(大阪)
優勝6回
勝率0.765
得意手左四つ、はず押し、寄り
年寄名朝日山→大錦

分…引分
預…預かり(物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めないこと)
無…無勝負(勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司は勝敗の裁定をなしにすることができた)

第28代横綱大錦大五郎の略歴

1883年(明治16年)7月22日 誕生
1900年(明治33年)11月 京都で初土俵
1903年(明治36年)1月 大阪で三段目附出し
1905年(明治38年)6月 新十両
1906年(明治39年)2月 新入幕(十両筆頭)
1906年(明治39年)5月 正式に入幕
1907年(明治40年)6月 小結
1908年(明治41年)1月 関脇
1910年(明治43年)6月場所後 大関
1916年(大正5年)5月 新横綱
1917年(大正6年)1月 朝日山大五郎を襲名
1918年(大正7年)1月 大錦に戻る
1922年(大正11年)1月 引退
1923年(大正12年)11月 廃業
1943年(昭和18年)5月16日 59歳で没

ツイートする

シェアする

こちらの記事も読まれています

【第4代横綱】谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)

【第4代横綱】谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)

【第21代横綱】若島権四朗(わかしまごんしろう)

【第21代横綱】若島権四朗(わかしまごんしろう)

【第8代横綱】不知火諾右衛門(しらぬい だくえもん/なぎえもん?)

【第8代横綱】不知火諾右衛門(しらぬいだくえもん/なぎえもん?)

【第9代横綱】秀ノ山雷五郎(ひでのやまらいごろう)

【第9代横綱】秀ノ山雷五郎(ひでのやまらいごろう)

【第30代横綱】三代目西ノ海嘉治郎(にしのうみかじろう)

【第30代横綱】三代目西ノ海嘉治郎(にしのうみかじろう)

【第72代横綱】稀勢の里寛(きせのさと ゆたか)

【第72代横綱】稀勢の里寛(きせのさと ゆたか)

【第10代横綱】雲龍久吉(うんりゅうひさきち)

【第10代横綱】雲龍久吉(うんりゅうひさきち)

【第5代横綱】小野川喜三郎(おのがわきさぶろう)

【第5代横綱】小野川喜三郎(おのがわきさぶろう)

好角家入門

「好角家入門」は大相撲に関して調べたことや力士のイラストなどをアップしているサイトです。新米大相撲ファンとして楽しい大相撲ファンサイトを作っていきたいと思いますので、拙いところも多々ありますが一緒に楽しんでいただければ幸いです。

このサイトについて


Home Twitter Facebook Instagram Contact