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【相撲用語】「年寄名跡(としよりみょうせき)」の意味とは

年寄名跡としよりみょうせき

相撲用語「年寄名跡としよりみょうせき」とは、日本相撲協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名称のことです。

「年寄名跡」は「年寄株」「親方株」ともよばれますが、この「年寄株」「親方株」という呼び方は俗称で、「年寄名跡」が正式な言葉になります。

現役を引退した力士は105ある年寄名跡のうちどれかひとつを襲名継承してはじめて、相撲部屋を興して後進の指導をしたり、相撲協会の役員となりその運営に携わったりすることができます。

裏をかえせば、「年寄名跡」を襲名継承できなければ、年寄(親方)として相撲協会に残ることができません。

特例として「一代年寄いちだいとしより」という制度もありますが、現役時代に一定の実績を残して年寄名跡の取得資格を得たうえで名跡を取得し、現役引退と同時に襲名して「○○親方」と呼ばれるのが一般的です。

年寄名跡の数は1889年(明治22年)に88、そして1927年(昭和2年)に東京大角力おおずもう協会と大阪角力協会との東西合併の際に大阪頭取(年寄)から17の名跡が加えられ、合計105の年寄名跡が今に至ります。

年寄名跡一覧(あいうえお音順)

浅香山あさかやま初代は1686年(貞享3年)に年寄仲間に加わった浅香山市郎右衛門で、1692年(元禄5年)9月の興行から差添さしぞいや勧進元をつとめた。
朝日山あさひやま1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。初代は1766年(明和3年)8月限りで引退して頭取となった朝日山森右衛門。
安治川あじがわ初代は1786年(天明6年)に引退して大阪の頭取となった二代猪名川政右衛門(のち藤嶋)。1942年(昭和17年)に旧大阪の頭取名跡を復活したときに「猪名川」は年寄「稲川」と同音で紛らわしいため「安治川」と改められた。
東関あずまぜき初代は1783年(天明)3年に引退した序二段の東関庄助。
荒磯あらいそ初代は1794年(寛政6年)に引退した三段目の荒磯与八(雲林改め)とされるが、詳細は不明。
荒汐あらしお初代は1712年(正徳2年)3月に年寄仲間に加わった荒汐仁太夫で、差添さしぞいや勧進元をつとめた。
いかずち初代は1684年(貞享元年)に江戸で初めて勧進相撲が許可されたときの勧進元として伝えられる雷権太夫。以後、江戸時代を代表する名跡としてあった。
伊勢ヶ濱いせがはま初代は伊勢ノ海部屋の行司である五代式守伊之助が、1844年(天保15年)ごろから兼務していたと考えられる。
伊勢ノ海いせのうみ初代は大阪・京都の力士を引退して、1756年(宝暦6年)から江戸相撲の差添さしぞいや勧進元をつとめた伊勢ノ海五太夫。江戸時代から連綿と引き継がれている名跡。
井筒いづつ初代は1756年(宝暦6年)春に勧進元として名が残る井筒伴五郎(のち万五郎)。
稲川いながわ初代は1843年(天保14年)9月に関脇で現役のまま年寄になった稲川政右衛門。
入間川いるまがわ初代は1741~1764年(寛保から宝暦年間)の力士で、宝暦の半ばに年寄になった入間川五右衛門。
岩友いわとも初代は1763年(宝暦13年)5月に世話人、1774年(安永3年)6月に大阪の頭取になった岩友新七。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
浦風うらかぜ初代は1772年(安永元年)11月限りで力士を引退した浦風与八。
枝川えだがわ初代は最高位が前頭12枚目の力士で、1774年(安永3年)6月に大阪の頭取になった枝川藤兵衛。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
追手風おいてかぜ初代は1773年(安永2年)閏2月限りで引退して部屋を興した追手風喜太郎。
阿武松おうのまつ初代は第6代横綱の阿武松緑之助。引退後に一時は長州藩(山口県)の相撲頭取をつとめたが、1843年(天保14年)に江戸年寄になった。
大島おおしま初代は小結までつとめて1771年(明和8年)5月限りで引退し、大阪の頭取になった藤嶋森右衛門。藤崎の名跡は、1927年(昭和2年)の東西合併の際には東京の年寄に加えられなかったが、1942年(昭和17年)に旧名跡の藤嶋から「大阪・藤嶋」を短縮した「大島」に改められて復活。
大嶽おおたけ初代は1722年(享保7年)9月まで差添さしぞいや勧進元をつとめた大竹市左衛門といわれる。
大鳴戸おおなると初代は関脇をつとめて1896年(明治29年)9月に大阪の頭取となった大鳴門太三郎。のちに「大鳴門」から「大鳴戸」に改称し、1927年(昭和2年)の東西合併で大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
大山おおやま初代は1782年(天明2年)2月限りで引退し年寄となった幕下二段目の大山谷右衛門。
尾車おぐるま初代は1690年(元禄3年)8月の勧進相撲で勧進元をつとめた小車庄三郎といわれる。
押尾川おしおがわ初代は大阪相撲で前頭2枚目まで進み、1773年(安永2年)に引退した押尾川巻右衛門。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
音羽山おとわやま初代は1717~1723年(享保2~8年)ごろに引退した音羽山峰右衛門。
尾上おのえ初代は1706年(宝永3年)6月まで差添さしぞいや勧進元をつとめた尾上六郎左衛門。
小野川おのがわ初代は1768年(明和5年)1月限りで大阪の頭取となった小野川才助。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
鏡山かがみやま初代は1725年(享保10年)ごろに差添さしぞいをつとめたといわれる鏡山源助。
春日野かすがの初代は1774年(安永3年)4月限りで引退して年寄になった幕下二段目の春日野軍八。
春日山かすがやま初代は1716~1736年(享保年間)の力士で、1753年春に差添さしぞいをつとめた春日山鹿右衛門。
片男波かたおなみ初代は1741~1748年(寛保~延享)ごろに引退し、以降年寄専務をつとめた片男波岸右衛門。
勝ノ浦かつのうら初代は1783年(天明3年)3月限り幕下二段目で引退し、以降年寄専務をつとめた勝ノ浦甚五郎。
甲山かぶとやま初代は1779年(安永8年)3月限りで引退した幕下2段目の甲山力蔵。
北陣きたじん明治初年、第12代横綱の陣幕久五郎がしこ名のまま大阪の頭取になったのが始まり。陣幕が大阪を去ったのち、大阪には以前から陣幕という名跡があったため「北陣」といわれるようになった。1927年(昭和2年)の東西合併では廃家となったが、1942年(昭和17年)に復活。
君ヶ濱きみがはま初代は1862年(文久2年)10月に君ヶ浜安右衛門と改称した幕内の武蔵潟伊之助。
木村瀬平きむらせへい
(木瀬)きせ
この名跡は「木村瀬平」の名で継承され「木瀬」と通称される。初代は1763年(宝暦13年)に年寄として名前の残る木村瀬平。
清見潟きよみがた初代は1784年(天明4年)11月限りで引退して年寄となった三段目の清見潟又五郎(年寄名では又蔵)。
桐山きりやま初代は1757年(宝暦7年)春に差添さしぞいの届け出に名が残る桐山権平。
熊ヶ谷くまがたに初代は1776年(安永5年)1月限りで引退した序二段の熊ヶ谷弥三郎。
粂川くめがわ初代は1781年(天明元年)10月限りで引退して年寄になった三段目の粂川平蔵。
九重ここのえ1688年(貞享5年)4月に行司の九重勝之助の名が残るが、初代といえるのは、1708年(宝永5年)に最初の差添さしぞいとして届け出た九重庄之助。
境川さかいがわ初代は1751~1781年(宝暦~安永)にかけて番付にあった境川浪右衛門。
佐渡ヶ嶽さどがたけ初代は1780年(安永9年)10月限りで引退した幕内の佐渡ヶ嶽澤右衛門。
佐ノ山さのやま初代は1729年(享保14年)2月に差添さしぞいをつとめた佐野山丈助。元来は「佐野山」と書いたが、明治後期に「佐ノ山」と改められた。
式守秀五郎しきもりひでごろう
(式秀)しきひで
この名跡は「式守秀五郎」の名で継承され、「式秀」と通称される。式守は伊勢ノ海一門の行司が名乗った姓で、1772~1781年(安永末期)に初代の年寄となったのも行司の式守秀五郎。
錣山しころやま初代は1722年(享保7年)8月に勧進元をつとめた錣山里右衛門。
芝田山しばたやま明治時代に年寄阿武松の襲名問題で阿武松緑之助系と阿武松和助に分派したが、1889年(明治22年)に和助系が「芝田山」と改称して落着した。
白玉しらたま初代は1751年(宝暦元年)12月に差添さしぞいをつとめた白玉浪右衛門。
不知火しらぬい初代は1845年(弘化2年)に大阪で現役名で頭取をつとめた第8代横綱の不知火諾右衛門。1942年(昭和17年)に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
陣幕じんまく初代は1754年(宝暦4年)に引退して大阪の頭取になった陣幕長兵衛。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
関ノ戸せきのと初代は関脇までつとめて1777年(安永6年)10月に引退した関ノ戸億右衛門(安永3年に伊勢ノ海に改め)といわれる。
千田川せんだがわ初代は1788年(天明8年)8月限りで引退した千田川吉兵衛。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
高崎たかさき初代は1796年(寛政8年)から大阪の頭取をつとめた高崎市右衛門。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
高砂たかさごこの名跡は伝統的に「高砂浦五郎」の名で継承されている。初代は高見山大五郎のしこ名から1871年(明治4年)3月に高砂浦五郎と改名した。初代高砂は1873年(明治6年)に力士の待遇改善を要求して会所側と決裂し、1878年(明治11年)に和解して年寄として復帰した。
高島たかしま初代は1770年(明和7年)11月の三段目に名のある高砂五郎七。1888年(明治21年)までは「高砂五郎治」の名で継承されてきたが、初代高砂浦五郎によって「高嶋」と改称させられた。
高田川たかだがわ初代は1876年(明治9年)6月限りで引退し、現役名で大阪の頭取になった高田川音吉。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
武隈たけくま初代は1708年(宝永5年)10月などに勧進元を届け出た竹熊弥太八といわれている。
竹縄たけなわ初代は1762年(宝暦12年)5月限りで引退して大阪の頭取となった竹縄半右衛門。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
田子ノ浦たごのうら初代は1760年(宝暦10年)10月限りで引退した三段目の田子浦源蔵。
立田川たつたがわ元来は「龍田川」と書いた。初代は1757年(宝暦7年)に差添さしぞいをつとめた龍田川清八。
立田山たつたやま初代は1769年(明和6年)4月限りで引退した三段目の龍田山清田太夫で、もとは竜田山(龍田山)と書いていたが、のちに立田川と改めた。
立浪たつなみ初代は1867年(明治9年)1月限りで引退した幕内の鬼ヶ崎綱之助。
立川たてかわ初代は1702年(元禄15年)9月に名前の残る立川七郎兵衛。
楯山たてやま初代は1763年(宝暦13年)に年寄名の残る立山宇右衛門。6代目から「楯山」と書くようになった。
谷川たにがわ初代は1773年(安永2年)閏年限りで引退した谷川圓太夫。
玉垣たまがき初代は1717年(享保2年)6月ごろに引退したと伝わる玉垣額之助。
玉ノ井たまのい初代は1744年(延享元年)の上方番付に小結で名前の残る玉之井村右衛門(年寄名は玉ノ井)。
千賀ノ浦ちがのうら初代は1783年(天明3年)10月限りで引退した三段目の千賀浦門三郎。
出来山できやま初代は1707年(宝永4年)正月に勧進元をつとめた出来山岸右衛門。
出羽海でわのうみ初代は1799年(寛政11年)2月限りで引退した幕内の出羽ノ海運右衛門。
時津風ときつかぜ初代は1762年(宝暦12年)5月限りで引退した跡、世話人から助頭取、頭取と進んだ時津風弥吉。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
常盤山ときわやま初代は1756年(宝暦6年)9月限りで引退した常盤山小平治。
友綱ともづな初代は1779年(安永8年)に現役中に年寄となった関脇の友綱良助。
中川なかがわ初代は1684年(貞享元年)の相撲仲間15名のひとりにあげられている中川浅之助。
中立なかだち初代は1708年(宝永5年)に差添さしぞいをつとめたとされる行司の九重庄之助で、後に中立庄之助と改名した。
中村なかむら初代は1888年(明治21年)に大阪相撲で分裂問題が生じたとき、脱退組を頭取として支援した中村芝吉。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
鳴戸なると初代は1755年(宝暦5年)に勧進元で名が残る鳴門沖右衛門。
西岩にしいわ1888年(明治21年)に大阪相撲を脱退して「広角組」に加入した関の戸清蔵が1890年(明治23年)に岩友清太夫と改名、1895年(明治28年)の和解時に頭取として復帰したが、もともとあった岩友と併存したので通称「西岩友」と呼ばれ、のち西岩となった。1942年(昭和17年)に東京の年寄に加えられた。
錦島にしきじま初代は1757年(宝暦7年)10月の番付に名が残る五段目の錦島三太夫と伝わる。
錦戸にしきど初代は1845年(弘化2年)11月に錦戸段右衛門を襲名した幕下二段目の総ヶ関荒五郎。
二所ノ関にしょのせき初代は1806年(文化3年)10月に二所ノ関軍右衛門と改名した大関の錦木塚右衛門で、のちに南部相撲小頭をつとめた。昭和戦前戦後にかけて二所ノ関一門は繁栄をきわめた。
二十山はたちやま初代は1767年(明和4年)10月限りで引退した五段目の廿山重五郎(年寄名は要右衛門)。
八角はっかく初代は1879年(明治12年)6月限りで引退した幕内の鬼面山谷五郎(五月山鯉蔵改め。第13代横綱の鬼面山とは別人)。
花籠はなかご初代は1752年(宝暦2年)に勧進元に名が残る花籠与市。
放駒はなれごま初代は1754年(宝暦4年)春に差添さしぞいをつとめた放駒源七。
濱風はまかぜ初代は1760年(宝暦10年)10月限りで引退した幕内の濱風今右衛門。
秀ノ山ひでのやま初代は1812年(文久9年)4月限りで引退して年寄になった小結の秀ノ山傳治郎。
富士ヶ根ふじがね初代は1864年(元治元年)10月場所中に富士ヶ根三八と改名した幕下二段目の藤嵐三八で1867年(慶応3年)に引退して年寄となった。
藤島ふじしま初代は1763年(宝暦13年)に年寄として名が残る藤嶋甚八。
二子山ふたごやま初代は1791年(寛政3年)にの上覧相撲に年寄の名が残る二子山萬右衛門。
振分ふりわけ初代は1784年(天明4年)11月限りで引退した序二段の振分忠蔵。
間垣まがき初代は1721年(享保6年)7月の勧進元に名がある間垣伴七郎。
松ヶ根まつがね初代は1775年(安永4年)10月限りで引退した五段目の松鐘幸吉。
待乳山まつちやま初代は1789年(寛政元年)11月限りで引退した三段目の待乳山楯乃丞。
陸奥みちのく初代は1870年(明治3年)11月場所中に陸奥次良右衛門と改名した幕下二段目の深川次良吉。
みなと初代は1743年(寛保3年)5月に頭取として名が残る湊由良右衛門。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
湊川みなとがわ初代は1770年(明和7年)3月限りで引退した五段目の湊川四朗兵衛。
峰崎みねざき初代は1872年(明治5年)11月限りで引退した幕下二段目の源氏潟が峰崎宗右衛門と名乗ったもの。
三保ヶ関みほがせき初代は1764年(宝暦14年)5月限りで引退した三保ヶ関梶右衛門。1927年(昭和2年)の東西合併の際に大阪の頭取から東京の年寄に加えられた。
宮城野みやぎの初代は1796年(寛政8年)3月限りで引退した関脇の宮城野錦之助。
武蔵川むさしがわ初代は1751年(寛延4年)春に勧進元を願い出た武蔵川初右衛門。
山科やましな初代は1782年(天明2年)2月に年寄の名が残る山科十五郎。
山響やまひびき初代は1781年(安永10年)3月限りで引退した序ノ口の山響傅内。
山分やまわけ初代は1780年(安永9年)3月に山分万吉を襲名した隅田川万吉。
若藤わかふじ初代は1786年3月限りで引退した三段目の若藤庄八。
若松わかまつ初代は1763年(宝暦13年)に名が残る若松平次。

※敬称略

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